工場の片隅で、古びた機械が静かに回り続けている。その音を聞くたびに、私はなぜか胸が締め付けられるような気持ちになる。七十年近く生きてきた私には、機械というものが単なる道具ではなく、ともに時間を過ごした仲間のように感じられるのだ。
先日、知人の工場を訪ねたとき、担当者がある画面を見せてくれた。画面の中には、目の前の機械とまったく同じ形をした仮想の機械が動いていた。現実の機械に取り付けられたセンサーが温度や振動のデータを集め、それをもとに画面の中の仮想機械が同じように動く仕組みだという。これが「デジタルツイン」と呼ばれる技術だと教えてもらった。
担当者は誇らしそうに説明してくれた。この仮想モデルを使えば、機械が壊れる前に異常を察知できる。部品を交換すべき時期を事前に予測し、突然の故障を防ぐことができるわけだ。生産ラインが止まれば大きな損失につながるから、この技術は工場にとって非常に頼もしい存在だという。実際に導入してから、予期せぬ停止がほとんどなくなったと、担当者は目を輝かせながら話していた。
私はその話を聞きながら、複雑な気持ちになった。確かに便利だと思う。しかし同時に、機械の「声」をデータとして読み取るこの技術が、何か大切なものを変えてしまうのではないかという不安も感じた。熟練した職人が長年の経験で察知していた機械の微妙な変化を、今やコンピューターが数値として表示する。その変化は、技術の進歩に違いない。だが、職人の勘や経験はどこへ行くのだろうか。
もちろん、この技術が広がる可能性は工場だけにとどまらない。都市全体を仮想空間に再現して交通の流れを改善したり、医療の分野では患者の体の状態を細かく把握して治療に役立てたりすることも考えられている。人々の暮らしをより安全で便利にする力を、この技術は持っているのだろう。
ただ、私が気になるのは、膨大なデータをどのように守るかという問題だ。個人の体の情報や工場の生産情報が外部に漏れれば、取り返しのつかない被害が生じるかもしれない。また、こうした技術を導入するためには多くの費用がかかるため、大きな企業には恩恵が届いても、小さな工場や地方の事業者には手が届かないままになる恐れもある。
画面の中で動く仮想の機械を眺めながら、私は思った。技術は確かに世界を変える力を持っている。しかし、その変化が誰にとっても良いものになるかどうかは、技術そのものではなく、それを使う人間の判断にかかっているのではないか。古い機械の音の中に、私はそんな問いかけを聞いた気がした。