かつて、私が幼い頃に暮らした下町の路地は、薄暗く、どこか息苦しいほど人の気配に満ちていた。それでも、そこには奇妙な自由があった。誰もが互いを知っているようでいて、しかし誰も彼もの一挙一動を記録しようとはしなかった。人の目というものは、向けられると同時に忘れられるものでもあった。
今や、都市の至る所に無数の電子の眼が据えつけられ、街を行き交う人々の顔を、歩幅を、立ち止まる場所を、一分の隙もなく収集し続けている。当局はこれを「安全のための礎」と呼ぶ。確かに、凶悪犯の逮捕率が向上したという統計や、行方不明者の早期発見に貢献したという事例は枚挙に暇がない。治安の向上という便益は、決して軽視すべきものではなかろう。
しかしながら、ここで立ち止まって問わざるを得ないのは、「安全」という名目のもとに私たちが手放しつつあるものの本質についてである。人間が自らの存在を社会の中に置く際、その行為が逐一記録され、分析され、将来にわたって参照されうるとするならば、それはもはや「生きる」ことではなく、「観察される」ことに他ならない。匿名性とは単なる利便性ではなく、人が思索し、試行し、失敗し、また立ち上がるための精神的余白に他ならない。その余白を剥奪されるとき、人は自己検閲という見えない鎖を自らの思考に巻きつけることを余儀なくされる。
反論する声もあろう。「後ろめたいことがなければ、監視されても困らない」という通念は、一見もっともらしく聞こえる。だが、この論理は根本的な誤謬を孕んでいる。問題は「何を隠すか」ではなく、「誰が、何を根拠に、何のために見るのか」という権力の非対称性にある。運用基準が不透明なまま拡張される技術的権能は、今日は善意の担い手の手にあるとしても、制度的歯止めなき状態では、明日には恣意的な抑圧の道具に転化しかねない。歴史はそのような転落を幾度となく証言してきた。
自由とは、翼を広げることのできる空間の広さによって測られる。その空間が知らぬ間に狭められ、透明な壁に囲まれていたとき、人は飛ぶことを忘れるのではなく、飛ぼうとすることすら思い至らなくなる。技術の進歩が人間の尊厳を豊かにするか否かは、結局のところ、社会がいかなる問いを技術に向けて発し続けるかにかかっている。監視が「見守る」ことから「支配する」ことへと変質する境界線を、私たちは今こそ、法の言葉で、哲学の言葉で、そして市民の声で、明確に引き直さなければならない。