「失われた三十年」という言葉が示すように、日本社会は長期にわたる停滞を経験してきた。その間、欧米諸国ではGDP成長を絶対的な指標とする経済観そのものへの根本的な問い直しが進み、「成長なき繁栄」を掲げる脱成長論や、経済活動を社会的・生態的限界の枠内に収めようとするドーナツ経済モデルが一定の知的影響力を持つに至った。これらの議論の根底には、効率と競争を最優先とする市場原理主義が、所得格差の拡大と環境の劣化を不可避的に招くという認識が横たわっている。
一方、日本においては、協同組合や地域通貨、あるいは若者世代に広がる脱消費志向といった動きが、欧米の脱成長論とは異なる文化的文脈から自生的に生まれてきた側面は見逃せない。集団的調和を重んじる価値観や、過剰な競争に対する疲弊感が、経済的合理性よりも生活の質や人間関係の豊かさを優先する姿勢と結びついているのである。しかしながら、こうした価値観の転換が政策的な制度設計へと昇華されない限り、個人の選択にとどまるに過ぎず、構造的な格差是正には到底つながり得ないという批判もまた根強い。
欧米において提唱されてきた社会的連帯経済の思想は、市場と国家という二項対立を超え、市民が主体的に経済活動を担うことで、利潤最大化とは異なる価値——互酬性、共同管理、社会的包摂——を経済の中心に据えようとするものである。フランスやスペインのモンドラゴン協同組合などはその象徴的な事例として頻繁に引用されるものの、それらの成功が特定の歴史的・文化的土壌に深く根ざしているという事実は、しばしば軽視されがちである。
翻って日本の文脈を考えると、政府が掲げる「新しい資本主義」というスローガンは、成長と分配の好循環を謳いながらも、その実態は既存の市場システムの枠内での修正にとどまるとの指摘を免れない。真の意味での代替モデルを構築するためには、成長への執着を手放すことを余儀なくされるにもかかわらず、政治的な合意形成はおろか、社会全体の価値観の転換すら容易ではない。それでもなお、日本社会に潜在する相互扶助の文化的素地が、今後の制度的革新の土台となり得る可能性は、慎重に評価されるべきであろう。