量子コンピュータの実用化が近づくにつれ、現行のデジタル社会を支える暗号体系が根底から覆される可能性が、安全保障上の喫緊の課題として浮上している。米国国立標準技術研究所(NIST)が2024年に公表した調査報告によれば、現在インターネット通信の大半で採用されているRSA暗号は、十分な演算能力を備えた量子コンピュータによって理論上数時間以内に解読され得るという。同報告は、金融・医療・行政など社会インフラの根幹を担うシステムが、こうした脅威に対して軒並み無防備に近い状態に置かれていると警告している。
同調査が特に注目したのは、「Harvest Now, Decrypt Later(今収集し、後で解読する)」と呼ばれる攻撃戦略の台頭である。これは、現時点では解読不能な暗号化データを大量に収集・蓄積しておき、量子コンピュータが実用化された段階で一括して解析するという手法であり、すでに複数の国家主体がこの戦略に基づいて情報収集活動を展開しているとの分析が報告書に明記されている。とりわけ機密性の持続期間が長い外交・軍事情報においては、現在の通信が将来的に丸裸にされるリスクを孕んでいるとされ、その深刻さは看過し得ない水準に達していると指摘される。
こうした現状を踏まえ、NISTは量子計算に対しても解読耐性を持つとされる新世代の暗号アルゴリズム群を標準化したものの、各国政府・企業における移行は遅々として進んでいないのが実情である。日本においても、内閣サイバーセキュリティセンターが2023年度に実施した実態調査の結果、重要インフラ事業者の約六割が新暗号方式への移行計画を策定するに至っていないことが明らかになった。専門家の間では、技術的優位を競う国家間の覇権争いが激化する一方で、脆弱性という点では先進国・途上国を問わず等しくリスクを抱えているという逆説的な構造が、国際的な協調を一層困難にしていると論じられている。