人が一人で生きていけると思うのは、若い頃の錯覚だったかもしれない。私は長年、人と人とのつながりを研究してきたが、七十代になった今、その問いがいっそう切実に感じられる。
現代社会では、都市化や核家族化が進み、隣に誰が住んでいるか知らないまま暮らす人が増えている。そうした環境の中で、特に高齢者や若者の一部が、周囲との接点を失いつつある。人とのつながりが薄れると、心だけでなく体にも悪影響が出ることは、多くの研究が示している。孤独は、喫煙や運動不足と同じくらい健康を損なうという報告もあるほどだ。
私自身、数年前に妻を亡くしたとき、初めてその重さを身をもって経験した。長年連れ添った相手がいなくなり、家の中の静けさが、まるで壁のように感じられた。そのとき救われたのは、近所の人が声をかけてくれたことや、かつての教え子たちが集まってくれたことだった。制度や仕組みではなく、人の温かさが、私を日常へと引き戻してくれた。
その経験を通じて、私は「支援」というものの本質について改めて考えるようになった。支援とは、何か特別なことをすることではない。日常の中で「あなたのことを気にかけている」と伝えることが、最も力を持つのではないだろうか。
地域の中には、すでにそうした役割を担う場所がある。町内会の集まり、図書館の読書会、商店街の顔なじみとの会話。こうした何気ない接点が、実は孤立を防ぐ大切な網の目になっている。しかし問題は、そのような場にたどり着けない人が少なくないことだ。体が不自由な人、人と話すことが苦手な人、あるいは自分が助けを必要としていると認めたくない人。そうした人々は、支援の網の外側に取り残されやすい。
専門機関の存在も欠かせないが、それだけでは不十分だと私は思う。制度的な支援は、入口の敷居が高いことが多い。相談窓口に電話するには、すでにある程度の余裕が必要だ。本当に追い詰められているときには、その一歩が踏み出せないことがある。だからこそ、日頃から顔の見える関係を築いておくことが、何より重要なのだ。
では、どうすれば孤立を防ぐ支援の網を広げることができるのか。私が考えるのは、「気づく力」を社会全体で育てることだ。誰かが孤立しているとき、それに最初に気づくのは、たいてい専門家ではなく、身近にいる普通の人間だ。隣人であり、友人であり、スーパーの店員であることもある。
その「気づき」を行動につなげるためには、地域のつながりが土台として必要だ。日ごろから声をかけ合う習慣があれば、異変にも気づきやすい。一方で、そうした習慣が失われた地域では、孤立が長期間気づかれないまま続くことになる。
私はこの問題を、個人の努力だけで解決しようとするのは間違いだと考えている。行政や学校、企業も含めた社会全体が、人と人とのつながりを意識的に守ろうとしなければならない。それは、誰かのためではなく、いつか必ず孤独に直面する私たち自身のためでもある。七十年以上生きてきて、つながりの価値は、失ってみて初めてわかるものだと、今は確信している。孤立を防ぐことは、社会の仕組みの問題であると同時に、私たち一人ひとりの姿勢の問題でもあるのだ。