田中健一は、五十五歳になった今も、あの夜のことを忘れられない。
昭和五十年代、日本の工場は夜も明かりを消さなかった。「もっと作れ、もっと早く」という声が、毎日工場の中に響いていた。健一は二十代のころ、大阪にある部品工場で働いていた。朝七時に工場に入り、夜の十一時まで働くことが当たり前だった。休みは月に二日だけで、残業を断ることは許されない雰囲気だった。
当時、日本全体が「よく働くことは良いことだ」という考え方を持っていた。上司は「会社のために犠牲になれ」とよく言った。健一もその言葉を信じ、体が疲れていても「もう少し頑張ればいい」と自分に言い聞かせていた。
しかし、ある冬の夜、転換点がおとずれた。健一の同僚である山本さんが、工場の中で急に倒れたのだ。山本さんは三十二歳だった。医者は「働きすぎによる心臓の病気だ」と言った。山本さんはその後、長い間入院しなければならなかった。健一はベッドに横たわる山本さんを見て、初めて「このままではいけない」と思った。
健一は少しずつ変わろうとした。まず、毎日の残業を減らすように上司に話した。しかし上司は「みんなが頑張っているのに、なぜ君だけ帰るのか」と怒った。それでも健一は、自分の体を守ることにした。夜九時になったら必ず工場を出るようにした。最初は周りの目が気になったが、半年後には体の調子がずいぶん良くなったと感じた。
時代は変わり、平成に入ると、社会も少しずつ変わり始めた。「働きすぎで亡くなる人がいる」というニュースが増え、人々は長い時間働くことの危険さに気づき始めた。会社も「社員の健康が大切だ」と言うようになった。
今、健一は孫に昔の話をする。「おじいちゃんたちは、仕事だけが人生だと思っていた。でも、それは間違いだった。仕事も大切だが、家族と過ごす時間や、自分の体を大切にすることも同じくらい大切なんだ」と話す。孫は静かにうなずく。
健一は思う。山本さんが倒れたあの夜がなければ、自分もきっと同じ道を歩んでいただろう。一人の人間の悲劇が、健一の人生を変えた。そして今、その経験は次の世代への大切な教えになっている。働くことと生きることのバランスを考えることは、昔も今も変わらず大切なことなのだ。