かつて人は忘れることで生きてきた。恥辱も後悔も、時の流れとともに薄れ、やがて当人の記憶の底に沈んで二度と浮かび上がらぬものと相場が決まっていた。ところが今日、そのような慈悲深い時間の働きは、テクノロジーの前にほとんど無力と化しつつある。
私が痛切にそれを感じたのは、数年前、ある旧知の人物の名をふと検索した折のことである。その人は若き日に軽率な発言をして世間の批判を浴び、その後長年にわたって誠実に社会と向き合ってきたと私は知っていた。しかし画面に並んだ検索結果は、そうした歳月の積み重ねを一顧だにせず、ただ当時の炎上記事のみを冷徹に列挙していた。過去は消えるどころか、むしろ精緻に保存され、誰の目にも即座に開示される状態で永続していたのである。
思えば、記憶とは本来、選択的かつ可変的なものであったはずだ。人の脳は都合の悪い記憶を書き換え、感情の文脈に応じて過去を再構成する。その曖昧さこそが、人間が過ちから立ち直り、新たな自己を形成するための不可欠な余白ではなかったか。ところが外部化された記憶——写真、投稿、記事の断片——は、人間の内的な忘却機能を一切持ち合わせていない。それらは劣化することなく複製され、ネットワーク上の無数のノードに分散して保全され続ける。かくして個人の過去は、当人の意志とは無関係に、永遠に参照可能な公文書と化してしまうのだ。
EUがいわゆる「忘れられる権利」を法的に認定した背景には、こうした構造的な非対称性への根本的な異議申し立てがある。情報を蓄積し続けるプラットフォームと、その情報に翻弄され続ける個人との間には、もはや対等な関係など存在しないという認識が、その根底にある。この問題提起は日本においても徐々に法的文脈で論じられるようになってきたものの、文化的な土壌の違いもあって、いまだ十分な社会的合意には至っていないというのが実情であろう。
しかし私が最も懸念するのは、法制度の未整備という次元の話ではない。それよりも深刻なのは、人々が自らの過去を永続的に記録されることを自明の前提として内面化しつつある、という意識の変容である。若者たちは投稿の一つひとつが将来の自分を縛りかねないことを半ば知りながら、なお発信することをやめない。忘却の喪失を嘆くどころか、記録されることに存在の証明を見出すようになっているとすれば、それは文明の転換点というほかない。
忘れることは、怠慢でも敗北でもない。それは人間が時間と折り合いをつけ、変化し続けるための根源的な能力である。その能力を静かに、しかし確実に剥奪しているものの正体を、私たちはいま直視せざるを得ない局面に立たされているのではないだろうか。