ゲノム編集技術の急速な進展は、医療の可能性を飛躍的に拡張したものの、同時に人類が長らく自明視してきた「生命の偶然性」という概念そのものを根底から揺るがしつつある。かつて遺伝的疾患は、いわば運命として受け容れざるを得ないものであった。しかし今や、受精卵の段階で特定の遺伝子配列を書き換えることが技術的に現実味を帯びてきた以上、「治療」と「強化」の境界線をどこに引くかという問いは、単なる医学倫理の問題にとどまらず、人間の自己理解そのものに関わる哲学的難問へと昇華されている。
この問題を論じるにあたり、自由主義的優生学の立場は一定の説得力を持つ。すなわち、国家による強制ではなく個人の自律的選択に基づく遺伝的介入は、許容されうるという論理である。しかしこの見解には看過しがたい陥穽がある。遺伝的強化が普及するにつれ、強化を受けた子と受けない子の間に生じる格差は固定化され、やがて社会的不平等が生物学的次元において再生産されるかもしれない。機会の平等という近代的理念は、こうした事態の前に空洞化する危険を孕んでいるのではなかろうか。
一方、ハーバーマスが提起したように、未来世代は自らの遺伝的構成について同意する機会を持たない。親が子の身体的・知的特性を事前に設計するという行為は、その子の自律性を根本的に侵害するに違いないという批判は、功利主義的な便益計算では容易に退けられない重みを持つ。
もとより、遺伝性疾患の治療を目的とした編集を全面的に否定する論者はほとんど存在しない。問題の核心は、苦痛の除去という消極的目的を超えて、知性や体力といった形質の積極的付与が許容されるかどうかにある。この一線を曖昧にしたまま規制の議論を進めることは、技術の暴走を招くのみならず、人間の尊厳という概念が徐々に空洞化していく過程を黙認することにほかならない。生命を設計可能な対象として捉えるまなざしが常態化するとき、私たちは何を失うのかを、今こそ真摯に問い直すべきであろう。