家族とは何か、という問いに向き合うたびに、私は自らの研究者としての立場を問い直さざるを得ない。戸籍制度と血縁規範が社会的紐帯の根幹をなしてきた日本において、この問いは単なる概念上の議論にとどまらず、生身の人間の尊厳と生存に直結する切実なものである。
私がこの問題を本格的に調査し始めたのは、ある里親家庭への取材がきっかけであった。その家庭では、血のつながりを持たない三人の子どもたちが、委託を受けた夫婦のもとで暮らしていた。傍目には何ら異なるところのない日常が営まれていたものの、法的・制度的な壁は随所に顔を覗かせた。学校の書類には「保護者」の欄があるのみで、その関係性の実質を記す余白はどこにもない。里親夫婦の一方が「子どもを守りたいという気持ちは親として当然のものなのに、制度はその気持ちを常に条件付きのものとして扱う」と語ったとき、私は既存の家族論が見落としてきた深刻な空白を直感した。
近年、特別養子縁組の要件緩和や里親登録数の増加など、制度的な前進は確かに見られる。しかし、数値の改善が直ちに当事者の経験の質を保証するわけではない。私が複数の当事者家庭を継続的に追跡した調査では、法的な位置づけが安定したのちも、周囲の無理解や偏見によって精神的な負荷を余儀なくされる事例が後を絶たなかった。「制度は整いつつある、だが社会の認識はいまだ血縁中心の枠組みから抜け出せていない」というのが、複数の支援者から一致して得られた見解であった。
こうした取材を重ねるなかで、私は「選択的家族」という概念の持つ両義性に着目するようになった。自らの意志で形成される家族は、血縁家族が自明視してきた結びつきの根拠を問い直す力を持つ一方で、選択の自由を前提とすることで、選択できない立場にある子どもや社会的弱者の問題を覆い隠しかねないという批判も成り立つ。概念の解放性と排除性は、表裏一体をなしているのである。
家族の多様性を肯定する言説は、近年の社会的議論において一定の市民権を得つつある。だが、多様性の承認が、既存の制度的不平等を温存したまま表面的な包摂を演出するにすぎないとすれば、それは真の変革とはほど遠い。問われるべきは、いかなる形の家族も等しく社会的資源にアクセスし得るための構造的条件であり、その整備には精緻な制度設計と、血縁を自明視する規範そのものへの継続的な批判的検証が不可欠である。研究者として私は、この問いを安易に閉じることを自らに禁じている。