教育工学を専攻して三十年余りが経つが、近年ほど現場との乖離を痛感させられた時期はなかった。かつて私は、学習者一人ひとりの習熟度に応じて課題を動的に再構成する仕組みこそ、教育の理想形であると信じて疑わなかった。だが、先端技術が教室に浸透し始めた頃から、その確信は徐々に揺らぎを帯びるようになった。
人工知能を活用した適応型学習システムは、膨大な学習履歴を解析し、個々の弱点を可視化する点において従来の一斉授業を凌駕する潜在力を持つ。実際、ある実証研究では、導入校の学力指標が非導入校と比較して有意に向上したという結果も報告されている。技術の恩恵を真摯に受け止めねばならないと思う一方で、私の胸中には拭い難い懸念が渦巻いていた。
アルゴリズムが学習者の行動パターンを逐一記録し続けるとき、そこには自ずとプライバシーの侵食という問題が生じる。のみならず、経済的格差に起因するデジタル環境の不均衡が、技術の恩恵を享受できる者とそうでない者との間に新たな断絶を生み出しかねない。教育の公平性という根幹を揺るがすこの問題を、単なる副次的課題として括ることは、研究者としての良心が許さなかった。
同僚の山田教授とは長年にわたって議論を重ねてきたが、仮想現実技術の教育的活用をめぐる見解の相違は、今なお埋まらないままである。彼女は、没入型の体験的環境が学習者の情動を喚起し、抽象概念を具体的経験として定着させる効果を強調する。歴史的遺構の内部を自在に歩き回りながら学ぶ授業は、確かに従来のテキスト学習とは比較にならない臨場感を提供するだろう。
しかし私は、技術への過度な依存が教師の専門的判断力を形骸化させるという懸念を拭えずにいる。学習者との対話の中から生まれる即興的な問い直しや、沈黙の裏に潜む理解の齟齬を察知する洞察力は、いかに精巧なシステムといえども代替し得ないはずだ。山田教授は「ツールはあくまで補助に過ぎない」と反論するが、現場では往々にして手段が目的に転化する逆説が起きている。
五十代になって改めて思うのは、技術の優劣を論じることよりも、何のために学ぶのかという問いを学習者自身に内在化させることこそが、教育の本質的な使命ではないかということだ。華々しい革新の陰で、その問いが置き去りにされていないか、私は今も自問し続けている。