先日、久しぶりに古い手紙を整理していたとき、一枚の短いメモが出てきた。大学院生だった頃、指導教員から渡されたものだ。「君の論文の視点は独創的だ」と、ただそれだけ書いてあった。当時の私は自分の研究に自信を持てず、毎日不安の中で過ごしていた。そのメモを受け取った日の午後、空が急に明るく見えたことを今でも覚えている。
この経験を振り返るとき、私はいつも江戸時代の儒学者たちのことを思い出す。彼らは師から一言の肯定を得るために、何年もの歳月を費やした。師の言葉は単なる評価ではなく、弟子の進むべき道を照らす光でもあったわけだ。現代の私たちは情報にあふれた社会に生きているが、人から認められたいという気持ちは、時代を超えて変わらないに違いない。
日本では古くから、人を面と向かって褒めることを避ける習慣がある。謙遜を大切にする文化の中では、率直な称賛はむしろ不自然に映ることさえある。明治時代の教育者・新渡戸稲造は、著書の中で日本人の感情表現の控えめさについて触れている。彼は、言葉に出さない思いやりの美しさを認めながらも、伝えられない言葉の持つ限界についても正直に述べていた。その洞察は、百年以上が過ぎた今も色あせていないように思う。
私自身、授業の中で学生を褒めることを意識的に実践するようになったのは、ここ十年ほどのことだ。最初は照れくさく、どこか大げさに感じられた。しかし、思いがけない一言が相手の表情をどれほど変えるかを繰り返し目にするうちに、その効果の大きさを実感するようになった。ある学生は「先生にそう言ってもらえて、初めて自分の考えに価値があると思えた」と話してくれた。この言葉は私にとって、言葉の力について改めて考えるきっかけになった。
もちろん、根拠のない褒め言葉は相手を傷つけることもある。空虚な称賛は、むしろ信頼を損なうばかりか、相手の成長を妨げる可能性もある。歴史を見ても、真実を伴わないおせじが政治や社会に悪影響を与えた例は少なくない。大切なのは、相手の努力や独自性を正確に見つめたうえで、その価値を言葉にする誠実さだろう。
褒め言葉は、受け取る側だけでなく、伝える側にとっても意味を持つ。他者の良さに気づくことは、自分自身の視野を広げることでもある。過去の人々が言葉を通じて互いを支え合ってきたように、私たちも言葉の持つ力を再発見する必要があるのではないだろうか。