地球の痛みを、私はどこか遠い国の出来事として聞き流してきた。七十年余りを生きてきて、ようやくその過ちに気づかされる。温暖化の波紋が国境を越えて広がるにもかかわらず、各国はいまだ自国の懐具合を最優先に据え、協調の手を差し伸べることを渋っている。国際的な枠組みへの参加を促す「義務的削減方式」は、数値目標を法的拘束力で縛ることによって確実な成果を見込めるものの、国家主権の侵害だとして反発を招きやすく、離脱の火種を常に抱え込まざるを得ない。実際、ある大国がその枠組みから撤退した際、世界が被った失望の深さは計り知れなかった。翻って「自発的貢献方式」は、各国が自らの実情に応じた目標を設定する自由を保障するがゆえに、参加の裾野を広げる効果こそあれ、目標の水準が玉石混交となり、全体としての削減量が掛け声倒れに終わる懸念を拭い去れない。老いた目で眺めると、どちらの道も一長一短であり、どちらかを選べば必ず何かを失うという、人生の縮図のようにも映る。
晩秋の風が窓を揺らすたびに、若い頃に読んだ詩の一節が浮かぶ。「誰かが負わねば、誰も負わぬ」。環境外交の舞台でも、この言葉は痛切に響く。先進国と途上国の間で「公平な負担」をいかに分かち合うかという問いは、長年にわたって外交の難所であり続けてきた。「歴史的責任論」は、過去の工業化によって温室効果ガスを大量に排出してきた富裕国こそが、より重い削減義務を担うべきだという論理に立脚する。この考え方は道義的な説得力を持つに違いないが、急速な経済成長を続ける新興国の排出量が無視できない規模に膨らんでいる現実を前に、有効性が問われることも少なくない。一方、「能力主義的分担論」は、現在の経済力を基準として各国の貢献度を算定しようとするもので、実態に即した柔軟性を備えている。しかしながら、過去の蓄積によって恩恵を受けてきた国々の歴史的負債を不問に付すことへの反発は根強く、途上国の合意を取り付けることは至難の業といわざるを得ない。どちらの論理も、それぞれの正義を抱えて譲らない。長い人生で学んだことがあるとすれば、正義が複数あるとき、対話以外に活路はないということだ。