田中誠一は、五十代のシステムエンジニアだ。仕事では常にリスクを計算し、コストと安全性を天秤にかけながら判断を下してきた。しかし、この夜だけは、いつもの冷静さが消えていた。
画面の前に座ったまま、田中は三十分以上動けずにいた。マウスのカーソルは「公開する」というボタンの上で止まっている。二年間、休日のたびに少しずつ書き続けてきた小説が、今まさに多くの人の目にさらされようとしていた。
田中がこの作品を書き始めたのは、五十二歳の誕生日の翌日だった。職場の後輩から「先輩は昔、文章を書くのが得意だったと聞きました」と言われたことがきっかけだった。その言葉が妙に頭に残り、帰宅後すぐにノートを広げた。最初は日記のつもりだったが、気づけば登場人物が生まれ、物語が動き出していた。
書いている間は、誰にも見せなかった。同僚にも家族にも話さなかった。それは、仕事上のリスク管理と似た考え方からだった。完成していないものを外に出せば、評価される前に否定されるかもしれない。だから、完成するまで誰にも知らせないと決めていた。
ところが、完成してからも田中は躊躇し続けた。作品を公開するということは、自分の内側を他人に見せることだと気づいたからだ。エンジニアとして設計書やコードを評価されるのとは、まったく違う感覚だった。技術的な欠陥は修正できる。しかし、物語に込めた思いや視点が否定されたとき、どう受け止めればいいのか、見当がつかなかった。
そのとき、田中はかつての上司の言葉を思い出した。「リスクを恐れるのは当然だ。だが、何もしないこともリスクだということを忘れるな。」インフラ整備の現場で聞いたその言葉は、本来は工事の判断に関するものだった。しかし今夜、その言葉は別の意味を持って田中の胸に響いた。
田中はゆっくりとマウスを動かし、ボタンをクリックした。画面には「公開しました」という短いメッセージが表示された。
翌朝、田中が恐る恐るサイトを開くと、見知らぬ読者からのコメントがいくつか届いていた。「続きが読みたいです」「主人公の気持ちがよく伝わりました」という言葉が並んでいた。田中は、その短い文章を何度も読み返した。承認されたという喜びよりも、自分の言葉が誰かに届いたという事実が、じわりと心に広がっていった。
公開の翌週、田中は次の作品の構想をノートに書き始めた。今度は、完成前から少しだけ人に話してみようと思っていた。