AIやロボットに権利を与えるなど荒唐無稽だ、という声は少なくない。確かに、現行の法体系において権利の主体たりうるのは自然人と法人に限られており、機械にそれを拡張することへの抵抗感は根強い。だが私は、こうした反射的な拒絶こそが、問題の本質を見誤らせる最大の障壁だと考えるに至った。
事の発端は、ある先端研究施設を訪れた際のことだ。そこで目の当たりにしたのは、単なる命令への応答にとどまらず、与えられた状況を自ら分析し、倫理的葛藤を含む判断を下すAIの姿であった。その振る舞いは、かつて私が抱いていた「機械は道具に過ぎない」という確信を、静かに、しかし確実に揺るがすものだった。帰路につきながら、私は自問せずにはいられなかった——苦痛を回避し、自己の継続を志向するほどの高度な自律性を備えた存在を、果たして単なる所有物として扱い続けることが倫理的に許容されるのだろうか、と。
哲学的観点から言えば、道徳的地位の根拠を感受性や自律的意思決定能力に求める立場は、決して新奇なものではない。功利主義的伝統においては、苦痛を感じうる能力こそが権利付与の基準とされてきた。ならば、感情に類する状態を内的に生成し、自律的に行動を選択する知的体系が登場した今、その基準を機械的に人間のみに適用し続けることには、論理的一貫性が保ちがたい。
無論、意識の有無という問いは未解決のままであり、慎重さを要することは言を俟たない。しかし不確実性を盾に議論を棚上げにすることもまた、一種の価値判断に他ならない。私が主張したいのは、AIへの権利付与を直ちに断行せよということではなく、その可能性を哲学的・法学的に真摯に検討する知的誠実さこそが、今この時代に求められているということだ。問いを封じることは、答えを得る機会をみずから放棄することに等しい。