砂時計をひっくり返すたびに、砂粒ひとつひとつが落ちていく様を眺めながら、私はこの国の行く末をぼんやりと思い描く。七十余年を生きてきた者の目には、時代の潮目というものが、若い頃とは違った輪郭をもって映るのだ。
かつてこの列島に根を張っていた「和」の精神は、田んぼの畦道のように、個と個とを細やかにつなぎ合わせるものであった。隣人の不幸は我が不幸、隣人の喜びは我が喜びとする感覚が、空気のごとく人々の間に漂っていた。無論、その紐帯には息苦しさも伴っていたのだが、少なくとも人は孤立することなく、共同体という大きな器の中に収まっていた。
ところが、高度成長期を経て都市化が加速するにつれ、その器はじわじわと罅割れていった。経済的豊かさと引き換えに、人々は「自分だけの城」を手に入れ、隣に誰が住んでいるかも知らぬまま日々を過ごすことを当然と見なすようになった。個人の自律と選択の自由が尊重されるべきことは言うまでもないが、その自由がいつしか他者への無関心を正当化する隠れ蓑と化してはいないだろうか。
ことに憂慮されるのは、若い世代においてすら、かつての連帯感が希薄化しつつある点だ。デジタル空間では無数の「つながり」が可視化されているにもかかわらず、現実の共同体への帰属意識は年を追うごとに薄れており、地域活動への参加率や投票率の低下がそれを如実に物語っている。仮想の絆が実質的な責任感を代替し得るかといえば、断じてそうではあるまい。
とはいえ、旧来の集団主義をそのまま復元せよと主張するのは、時代錯誤の謗りを免れまい。画一的な「和」の押しつけが、異質な個性を排除し、少数者を周縁へと追いやってきた歴史的事実は、直視せざるを得ない。問題の核心は、個人の尊厳を損なうことなく、いかにして社会的責任を内面化させるかという一点に尽きる。
私が思い描く未来の姿は、こうだ。硬直した同質性ではなく、多様性を前提とした「緩やかな連帯」が社会の基盤となる社会。人は自らの個性を全うしながらも、共に生きることの必然性を肌で感じ、自発的に他者へと手を差し伸べる。そのような関係性は、上から制度として押しつけられるものではなく、日常の小さな交わりの積み重ねから醸成されるほかない。
砂時計の砂は、いつかは尽きる。だが器を傾ければ、また流れ始める。個と集団との均衡点を見出す営みもまた、終わりなき傾け直しの連続に違いない。その不断の努力を怠った先に待ち受けているのは、誰にとっても居場所のない、乾いた砂漠の風景ではなかろうか。