「先生、少しよろしいですか」
夕暮れの研究室に、村瀬が躊躇いがちに足を踏み入れた。窓の外では、枯れかけた銀杏の葉が風に揺れている。
「どうした。そんな顔をして」
教授の鷹野は、山積みの論文から目を上げることなく言った。その声には、突き放すような冷淡さと、かすかな気遣いとが入り混じっていた。
「例の提案書の件です。委員会に否決されました。でも……やはり私の案が正しいと思うんです。委員たちが理解できないだけで」
村瀬の言葉には、憤りよりも懇願に近い響きがあった。鷹野はようやく顔を上げ、眼鏡の奥から静かに部下を見つめた。
「村瀬、君は自分の案を支持する意見だけを集めてきたのではないか」
「それは……反対意見も確認しましたが、いずれも根拠が薄いと判断しまして」
「本当にそうか。それとも、都合の悪い根拠から目を背けることを、自らに許してしまったのではないか」
沈黙が部屋を満たした。村瀬は何か言おうとして、口を閉じた。
「人間というのは厄介なものでね」と鷹野は続けた。「自分の信念が揺らぎそうになると、それを脅かす情報を無意識のうちに遠ざけようとする。そして、自分に都合のよい証拠ばかりを積み上げて、それを客観性と錯覚する。これは意志の弱さではなく、思考そのものに潜む性質だ」
「では、どうすれば……」
「君に問いたいのはね、村瀬。今回の提案を否決した委員たちが本当に間違っているという確信は、いったいどこから来ているのか、ということだ。自分の判断を信じることと、自分の判断しか見えなくなることは、似て非なるものだよ」
村瀬は視線を床に落とした。窓を叩く風の音だけが、しばらく続いた。
「私は……見たいものだけを見ていたのかもしれません」
「それに気づけるかどうかが、分かれ道だ。人も組織も、自らの認識の檻に閉じ込められたまま滅びていくことがある。反証を求める誠実さこそが、思考を生かし続ける唯一の道だと私は思っている」
鷹野は再び論文へと目を戻した。それ以上何も言わなかったが、村瀬にはその沈黙が、叱責よりも深く刺さった。研究室を出た廊下は、すでに夜の気配に包まれていた。