財布の中に一枚の千円札を見つけたとき、私はふと手を止めた。その紙片には、見知らぬ誰かの手が幾度となく触れ、市場を巡り、人と人との縁を媒介してきた歴史が、目には見えぬかたちで刻まれているように思えたのだ。だが今や、そうした物質的な媒介を必要とせず、数字の羅列が瞬時に大陸を越えて飛び交う時代が到来しつつある。
政府が推進するキャッシュレス化の波を受け、街角の小さな八百屋でさえスマートフォンをかざすだけで決済が完了する光景が当たり前になりつつある昨今、私はある種の喪失感を拭い切れずにいる。それは単なる懐古趣味に帰結するものではなく、もっと根源的な問いと結びついている。すなわち、価値とは何か、そして信頼とは何者によって担保されるものなのか、という問いである。
国家が発行するデジタル通貨の研究が各国で加速するにつれ、貨幣の本質をめぐる議論は俄然、哲学的な色合いを帯びてくる。従来の紙幣が国家権力への暗黙の信任を前提としていたとするならば、特定の管理主体を持たない分散型の暗号資産は、その信任を「アルゴリズム」という非人格的な論理へと委譲しようとするものだと言えよう。人間が人間を信じる代わりに、数学的証明を信じる——この転換は、一見すると合理的に映るものの、私には得体の知れない孤独感を呼び起こす。
思えば、貨幣とは本来、人間の共同幻想の結晶であった。金貨が価値を持つのは、それが金であるからではなく、無数の人々がそれに価値を認めるという合意が成立しているからに他ならない。その意味において、デジタル通貨の普及は共同幻想の形式を変えるにすぎず、本質的な変革ではないと言う者もあろう。とはいえ、その幻想を支える主体が国家から分散したネットワークへ、あるいは中央銀行のアルゴリズムへと移行するとき、私たちは誰に対して怒りをぶつけ、誰に対して感謝を捧げればよいのか。責任の所在が霧散する社会において、人間はいかなる共同体感覚を紡ぎ得るのだろうか。
千円札を再び財布に収めながら、私はこう思う。利便性の追求は人間の本性であり、否定すべくもない。しかし同時に、不便さの中にこそ他者との摩擦が生まれ、その摩擦の中にこそ関係の温度が宿るのではないかと。デジタルの海に漂う数字は、確かに速く、正確で、疲れを知らない。だが速さと正確さが全てを覆い尽くした世界で、私たちは何を拠り所として「ともに生きている」と感じることができるのだろうか。その問いへの答えを見つけぬまま、時代は静かに、しかし確実に、次の岸へと流れ続けている。