先月、ドイツから来た同僚と一緒に渋谷を歩いていたとき、彼女が不意に立ち止まって「あの黒い箱、全部カメラ?」と呟いた。私は改めて街角を見渡し、ビルの軒先や交差点の電柱に無数のレンズが据え付けられていることに気づいた。慣れ親しんだ風景がその瞬間、異様なものに映った。
彼女の国では、公共空間における映像収集は厳格な法律のもとで制限されており、設置の目的や管理主体を明示する義務が課せられているという。翻って日本では、防犯を名目として増殖し続けるカメラの運用基準はいまだ曖昧なままで、誰が映像を保管し、いかなる条件のもとで当局に提供されうるのか、市民はほとんど知る由もない。
私自身、これまで監視される側に立つという意識を持ったことがなかった。安全と引き換えに何かを差し出しているという感覚が、日常のなかで完全に麻痺していたのだ。彼女の眼差しを通して初めて、自分が慣れ切ってしまったものの輪郭が見えた気がした。利便性や治安という成果に目を奪われ、その裏側で静かに侵食される何かを、私たちは見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。
同期の田中が「監視カメラって別に気にならなくない?むしろあると安心じゃん」と言ったとき、私は即座に同意しかけて、なぜか言葉を呑み込んだ。
数週間前に読んだ記事が頭をよぎったからだ。ある欧州の都市では、顔の特徴から個人を自動識別する技術の公共利用を全面禁止する条例が制定されたという。背景には、国家による恣意的な管理への根深い不信感がある。歴史的な抑圧の記憶が、プライバシーへの感度を極度に高めているのだと筆者は論じていた。
対して日本では、そのような技術の導入が粛々と進められているにもかかわらず、社会的な議論はきわめて低調だ。同調圧力や「お上への信頼」とも言うべき文化的土壌が、異議申し立てを困難にしているのではないかと私は思わざるを得ない。
田中の言葉は間違っていない。安心感は確かに実在する。しかし、その安心が誰かによって設計されたものだとしたら? 私たちが自ら問いを立てることをやめた瞬間に、自由はひっそりと形骸化していくのではないか。そんな不安を抱えながらも、私は結局その日、何も言えなかった。