民主主義の根幹は、有権者が自らの意志に基づいて判断を下すことにあるとされてきた。しかし、情報環境が急激に変容した現代においては、その前提そのものが揺らぎつつあると言わざるを得ない。欧米諸国では、フェイクニュースへの対抗策としてメディアリテラシー教育を義務教育段階から体系的に導入する動きが広まっており、批判的思考を育む制度的な基盤が整備されつつある。一方、日本においては、情報の真偽を吟味する力が市民に十分根付いているとは言い難い状況が続いており、SNS上に流布する政治的言説に対して無批判に追随する傾向が、とりわけ若年層において顕著だとされる。意外にも、高学歴者であっても感情に訴える扇動的な情報には脆弱であることが、複数の調査で明らかになっており、知識の蓄積と批判的思考の涵養は必ずしも比例しないという事実が浮き彫りとなっている。この乖離の根底には、日本の教育文化において「正解を覚える」ことが重視されてきた歴史的経緯があるとも指摘される。情報を疑い、多角的に検証する姿勢を社会全体として醸成していくことが、民主的な意思決定の質を守るうえで喫緊の課題となっている。
選挙における有権者の判断の質は、民主主義の実質的な機能を左右する。北欧諸国では、国家主導のメディアリテラシー政策が功を奏し、虚偽情報に対する市民の耐性が相対的に高い水準を維持しているとされる。これに対し、歴史的に権威への服従を美徳とする文化的規範が根強い社会では、情報の受け手が発信者の権威性を無批判に内面化するがゆえに、操作的な言説に対して脆弱になりやすいという構造的な問題が潜んでいる。日本社会もその例外ではなく、「空気を読む」文化や同調圧力が、個人による独立した情報評価を阻む要因として機能してきたと言えよう。こうした文化的土壌を前提とするならば、欧米型のリテラシー教育モデルをそのまま移植することには限界があるものの、それを理由に制度的介入を回避し続けることは、民主的退行を座視することにほかならない。文化的文脈を踏まえた独自の批判的思考教育の枠組みを構築し、情報操作に対する社会的免疫を育てることが、いまや一国の政策的優先事項として位置づけられるべき段階に達していると言っても過言ではない。