老いるということは、かつて私が思い描いていたよりもはるかに複雑な問いを孕んでいる。七十を超えた今、研究室の窓から眺める銀杏並木が色づくたびに、私はかつて指導した学生たちの顔を思い浮かべ、そして自分自身の晩年を静かに問い直す。社会保障の理論を幾十年も講じてきた私が、いざ自分の老いに直面してみると、学術的命題として論じてきた「世代間の扶養」という問題が、にわかに切実な肉声を帯びて迫ってくるのだ。
私が若い頃、祖父母の世話は一家総出で担うものであった。嫁が姑の床を整え、孫が薬を取りに走る。その光景には、確かに息苦しさと引き換えの温もりがあった。ところが今日、核家族化が進み、子どもたちは遠方に散り、高齢者が孤立するさまは珍しくもなくなった。公的介護保険制度が整備されたことで、家族の負担が軽減されたのは事実であるものの、それが同時に「親の面倒は社会に委ねてよい」という意識の変容を促したことも否定できまい。
私はかつて、ある学会の席でヨーロッパの研究者と激しく議論を交わしたことがある。彼は「老親の扶養を家族に課すのは前近代的な家父長制の残滓だ」と断言し、福祉国家が個人を家族の呪縛から解放すべきだと主張した。その論には一定の説得力があったが、私は釈然としなかった。家族の絆を「呪縛」と断じることは、共同体の倫理的紐帯をも切り捨てることにはならないか、と。
世代間の公平性という観点から見れば、現役世代が高齢者を支えるという構造は、かつて自分たちが親や社会から受けた恩恵を次世代へ還流させる、いわば「互恵の連鎖」として捉えることができる。しかし高齢化率が急上昇し、少子化が歯止めを失いつつある現代においては、その連鎖そのものが軋みを上げている。若い世代に過剰な負担を強いることが、果たして倫理的に正当化されうるのか。この問いに正面から向き合わずして、制度設計を論じることは砂上の楼閣に等しい。
思えば、私自身が最も深く省察を促されたのは、八十代半ばの母を看取った数年前のことだ。母は「施設には入りたくない」と繰り返した。その言葉の裏には、家族への甘えとも、孤独への恐怖とも、あるいは自らの尊厳への矜持とも取れる、複雑な感情が折り重なっていた。私は大学で倫理学を語りながら、一人の息子として母の願いと自分の限界の狭間で逡巡し続けた。
その経験が私に教えたのは、世代間扶養の問題は制度の問題であると同時に、深く個人の内面に根ざした倫理の問題だということだ。社会が老いを「管理」する仕組みをいかに精緻に整えようとも、その根底に流れるべき人間同士の敬意と連帯感が失われれば、制度は空洞化するほかない。私は今、残された時間をかけて、この問いを若い世代に手渡すことが、老いた研究者としての最後の務めであると感じている。世代を超えた対話こそが、扶養の倫理を生きたものとして継承する唯一の道ではないだろうか。