戦争や大規模災害といった歴史的外傷は、それを直接経験した世代のみならず、その後の世代にも深く刻み込まれる形で社会の記憶として機能する。社会学者モーリス・アルヴァックスが提唱した「集合的記憶」の概念は、個人の記憶が常に社会的枠組みの中で形成・維持されるという洞察を核心とするものであり、国民意識の形成を考える上で看過し得ない理論的基盤を提供している。
注目すべきは、同じ歴史的出来事であっても、それがいかなる形で記念・継承されるかは文化圏によって著しく異なるという事実である。たとえば、第二次世界大戦に関して、ドイツでは加害の記憶を国家的反省の柱として制度化する一方、日本では被害の記憶が国民的追悼の中心に据えられてきた。この差異は単なる歴史解釈の相違にとどまらず、それぞれの社会が国民統合を図る際にいかなる物語を必要としてきたかという、より根源的な問いと不可分に結びついている。集合的記憶とは、過去の客観的再現ではなく、現在の社会的ニーズに応じて絶えず再構築されるものであり、その意味において本質的に政治的な営みであるといわざるを得ない。
集合的記憶の継承様式に着目すると、東アジアと西欧の間には際立った対照が浮かび上がる。西欧諸国、とりわけフランスやドイツにおいては、歴史的記憶の公的制度化が積極的に推進され、ホロコースト否定を法律で禁じるなど、記憶の「正統性」を国家が保証する仕組みが整備されている。これに対し、東アジア諸国では、記憶の継承が国家主導の制度よりも家族や地域共同体における口承・慣習を通じて行われる傾向が強く、国家と記憶の関係性は一様ではない。
かかる差異の根源を探ると、それぞれの社会における「公」と「私」の境界線の引き方、ひいては個人と集団の関係をめぐる根本的な価値観の相違に行き着く。集合的記憶が国民意識の核を形成するとはいえ、その形成過程は文化的文脈を捨象しては論じ得ない。今後、グローバル化の進展とともに異なる記憶の伝統が接触・摩擦を繰り返すにつれ、相互理解のための新たな枠組みが模索される可能性がある。いずれにせよ、記憶の継承をめぐる文化的差異を相対化する視座こそが、国民意識の比較研究において不可欠な前提となるであろう。