法と良心の相克について語るとき、私はいつも半世紀以上前に目撃したある出来事を思い起こさずにはいられない。当時、私の郷里では、ある老農夫が隣村の用水路を無断で開削し、干ばつに苦しむ自村の田畑を救ったとして、地域の英雄として称えられる一方、法律上は財産侵害の廉で訴追されるという事態が生じた。法の条文に照らせば、彼の行為は疑う余地なく違法であった。しかしながら、その行為が守ろうとしたものの重さを思えば、単純に「罪を犯した」と断じることに、当時の私は強い違和感を覚えたものである。
こうした葛藤は、何も辺鄙な農村に限った話ではない。近代国家における法の支配とは、あらゆる個人が主観的な正義感によって法を恣意的に逸脱することを禁じ、社会秩序の維持を最優先とする原理に立脚している。この観点からすれば、たとえ動機が崇高であれ、法を自己判断で破ることは、法治そのものの根幹を揺るがす危険な行為と見なさざるを得ない。現に、ある法学者は「良心を盾にした違法行為を容認すれば、最終的にはいかなる法も無効化されかねない」と警鐘を鳴らしている。
ところが、その一方で、歴史はしばしば法の形式的な正しさと実質的な正義とが乖離する場面を積み重ねてきた。かつての植民地支配下における抵抗運動しかり、不正義な制度に対して身を挺して異議を唱えた無数の市民しかりである。こうした行動は、後の世において正当なものとして再評価されることが少なくない。すなわち、法が常に正義を体現しているとは限らないという厳然たる事実が、そこには横たわっているのである。
深層取材を通じてこの問題に向き合った私が辿り着いたのは、法と良心の対立は二者択一の問題ではないという認識である。法を遵守することは社会の安定に不可欠であるものの、その法が孕む不正義に対して声を上げ、合法的な手段を尽くしてなお変革が望めない状況においてのみ、良心に基づく抵抗が倫理的に正当化される余地が生じるというのが、多くの識者が到達した暫定的な結論といえよう。
私のような年配の者から見れば、法とは古来より共同体の知恵が凝縮されたものであり、軽々しく踏み越えるべきものではない。しかし同時に、法が人を縛る鎖となり果てたとき、それに甘んじることもまた、時代が私たちに突きつける倫理的問いから目を背けることに他ならない。大切なのは、法の権威を尊重しながらも、その背後にある正義の精神を見失わぬことではなかろうか。