スマートシティの推進会議に出席するたびに、私は奇妙な疎外感を覚えずにはいられない。壇上に並ぶ若い技術者たちは、AIによる交通制御やセンサーを駆使したゴミ収集の最適化を、まるで自明の善であるかのように語る。効率こそが都市の理想であり、データこそが市民の声に代わり得るという確信が、彼らの言葉の端々から滲み出ているのだ。
翻って、私のような世代にとって、都市とは何よりも人と人との摩擦の場であった。不便な路地で顔なじみの八百屋と値段を交渉し、バスの遅延に舌打ちしながらも見知らぬ老婆と言葉を交わす——そうした非効率の堆積こそが、共同体の温もりを醸成してきたのではないかという思いが拭えない。
無論、利便性の追求を頭ごなしに否定するつもりはない。ただ、最適化されたシステムが粛々と機能する都市において、市民はいつしか「管理される客体」へと矮小化されてしまうのではないかという懸念は、杞憂とも言い切れまい。技術は手段であり、目的ではないはずだ。その自明な前提が、熱狂の中で見失われていくことを、私はひそかに恐れている。
正直に言えば、年配の方々がスマートシティに懐疑的である理由が、以前の私には理解しがたかった。渋滞も待ち時間も、テクノロジーで解消できるなら解消すればよい。何を惜しむのか、と思っていた。
転機となったのは、地域の防災アプリ開発に携わった経験だ。住民説明会で、七十代の男性が静かに手を挙げてこう言った。「このアプリは、私たちが何十年もかけて築いてきた近所の助け合いを、ボタン一つに置き換えようとしているのではないですか」と。その一言が、胸に刺さって抜けなかった。
私たちの世代は、利便性と引き換えに何を手放しているのかを、あまりにも無頓着に問わずにきた。データは確かに人々の行動を映し出すが、その背後にある関係性や記憶までは掬い取れない。都市をより良くしようとする志は、世代を問わず共通しているはずだ。ならば、効率を追う側と、人の温もりを守ろうとする側とが、互いの言葉に耳を傾けることから始めるべきではないだろうか。その対話こそが、真に豊かな都市の礎になると、今の私は確信している。