かつて私が若かった頃、「会社を興す」という言葉には、どこか無謀な冒険者の匂いが漂っていたように思う。堅実な就職こそが社会人としての正道であり、名の知れた大企業に籍を置くことが、家族への責任を果たす証のように語られていた時代だった。そうした価値観は、単なる個人の好みに留まらず、制度の隅々にまで浸透していた。連帯保証という慣行は、創業に失敗した者が一家もろとも奈落へ転落しかねないほどの重荷を課し、再起への道を事実上封じる機能を果たしてきた。加えて、新卒採用を軸とした雇用慣行は、一度レールを外れた者を容易には受け入れない構造を温存し続けた。その結果、志ある若者たちでさえ、胸の内に秘めた構想を披露する場を持てぬまま、無難な選択へと押し流されていったのである。失敗を恥と見なす眼差しが社会全体に根を張っている限り、新たな事業を生み出す土壌は痩せ細る一方であり、活力の源泉たるべき創意工夫も、芽吹く前に摘み取られてしまうのではないかと、当時の私は漠然とした憂いを抱いていた。
翻って欧米の起業風土に目を向けると、失敗は恥辱どころか、経験値として積極的に評価される傾向が根強い。かつてシリコンバレーを訪れた際、現地の投資家が「一度も失敗していない起業家は信用できない」と屈託なく語るのを聞いて、私は思わず言葉を失った。そこでは、事業の挫折は無謀さの証明ではなく、市場と正面から格闘した者だけが得られる勲章として受け止められていた。こうした価値観の差異は、単に国民性の違いに帰着させられるべきものではなく、社会制度や教育のあり方と不可分に絡み合っている。個人の債務を限定する法的枠組みや、多様なキャリアを受容する雇用市場の柔軟性が、挑戦を現実的な選択肢として成立させているのである。翻って考えれば、イノベーションとは本質的に不確実性と隣り合わせの営みであり、その不確実性を社会全体で緩衝する仕組みがなければ、個々人が果敢に挑む動機は生まれにくい。起業家精神の醸成は、気概の問題である以前に、社会設計の問題なのだと、私はあの旅を経て確信するに至った。