田中先生は、長年地域の診療所で働いてきた六十代の医師だ。ある午後、診察が終わったあと、看護師の山本さんと話していた。
「先生、最近お体の具合はいかがですか。毎日遅くまで残っていらっしゃるので、心配しています。」
田中先生は少し間を置いてから、静かに答えた。
「ありがとう。でも、この町のことを思うと、なかなか早く帰れないんだよ。昔はね、この町にも元気なサッカークラブがあって、毎週末になると広場がにぎやかだった。子どもも大人も一緒になって練習して、試合のあとはみんなで食事をしたものだよ。」
山本さんは少し驚いた顔で聞いた。
「そうなんですか。今はそのクラブはどうなったんでしょう。」
「三十年ほど前に、工場が閉まってね。若い人たちが仕事を求めて町を出て行ったんだ。クラブも人が集まらなくなって、しばらくして活動をやめてしまった。あのころから、この町の空気が変わったような気がする。」
先生の声には、どこか寂しさが漂っていた。
「でも先生、去年から若い人たちが新しいクラブを作ったと聞きました。」
「そうなんだよ。あの動きを見て、私は本当にうれしかった。スポーツというのは、ただ体を動かすだけじゃない。人と人がつながるきっかけになるんだ。私が若いころに見たあのクラブも、ただ試合に勝つためだけに存在していたわけじゃなかった。お互いを知って、助け合う場所だったんだよ。」
山本さんはうなずきながら言った。
「確かに、最近また広場が明るくなってきた気がします。お年寄りの患者さんたちも、『孫が試合に出る』と言って、うれしそうに話してくれるんですよ。」
「それがいちばん大事なことだよ。医者として言うけれど、人と人のつながりは、薬よりも体によいこともある。孤独というのは、思った以上に心と体をむしばむものだからね。だから私は、あの新しいクラブがこれからも続いてほしいと思っているんだ。」
先生はそう言って、窓の外を見た。広場では、子どもたちがボールを追いかけていた。その顔を見ながら、先生は小さく微笑んだ。山本さんには、その笑顔の中に長い時間の重さが感じられるようだった。
「先生、明日も早くから来られるんですか。」
「もちろん。この町の人たちが元気でいるかぎり、私もここにいなければならないからね。」