かつて、ある産業が社会の隅々まで影響を及ぼすほど大きくなったとき、人々はその力をどう扱えばよいか戸惑った。二十世紀初頭のアメリカで、石油や鉄道を握る巨大企業が市場を独り占めにした時代がそれだ。当時の人々は、企業の成長を喜ぶ一方で、競争が失われていくことへの不安を感じていた。その後、政府は独占を制限する法律を整備し、市場に一定の秩序をもたらした。この歴史的な経験は、今日の巨大テクノロジー企業の問題を考えるうえで、大きな手がかりを与えてくれると私は思っている。
現在、いくつかの巨大なIT企業が、私たちの日常生活に欠かせないサービスを提供している。検索、通信、買い物、情報の発信と受信、ほぼすべてがそれらの企業のしくみの上に成り立っている。これは単なる便利さの話ではない。情報そのものを、ごく少数の企業が管理しているという現実がある。百年前の石油王が物の流通を握っていたように、今の巨大IT企業は情報の流れを握っているわけだ。
もちろん、規制に反対する意見もある。企業の自由な活動を制限すれば、新しい技術の発展が妨げられるというのがその主な理由だ。確かに、過度な規制がイノベーションの芽を摘んでしまう危険はある。しかし、競争がなければ、そもそも新しいものを生み出す動機も薄れていくに違いない。独占的な地位を持つ企業は、新たな競争相手が育つ前に買収したり、自社に有利なルールを押しつけたりすることができる。これでは、むしろイノベーションが止まってしまう恐れがある。
日本でも、二〇二一年にデジタル分野の取引を透明にするための法律が作られた。しかし、欧州と比べると、利用者を守る仕組みはまだ十分ではないという声が多い。歴史を振り返れば、規制が遅れるほど、問題が深刻になってから対処するはめになることが多かった。早めに手を打つことの大切さは、過去の教訓が証明している。
私が感じるのは、技術の進歩と社会の公正さは、どちらかを犠牲にしなくても両立できるはずだという点だ。百年前の人々も、最初はその答えを見つけるのに苦労したが、試行錯誤を重ねて少しずつ前進した。今の私たちも、同じように知恵を出し合う必要がある。巨大な力を持つ企業には、それに見合った社会への責任があるというのが、歴史が繰り返し示してきた教訓ではないだろうか。便利さを享受しながらも、その裏にある構造を問い続ける姿勢を、私たちは忘れないようにしたいと思っている。