「先生、少しよろしいですか。」
田中さんが研究室のドアを軽くたたいた。中から「どうぞ」という声がして、山本先生が顔を上げた。
「また例の研究のことですか。」
先生の声は穏やかだったが、田中さんは少し緊張した。三年間続けてきた研究が、最近うまくいっていないからだ。
「はい。正直に言うと、もうやめようかと思っています。」
田中さんはそう言いながら、自分の言葉が正しいかどうか自信がなかった。「やめる」というのは本当に自分が望んでいることなのだろうか。
先生はしばらく黙ってから、こう言った。
「田中さん、一つ聞いてもいいですか。あなたは今、あきらめたいのですか。それとも、ただ逃げたいのですか。」
その言葉は鋭かった。田中さんはすぐに答えられなかった。
先生は続けた。「江戸時代に、ある武士の話があります。その人は長い間、主人のために戦い続けました。しかし、ある日、主人が間違っていると気づいたとき、刀を置きました。周りの人は彼が弱い人間だと言いました。でも、その武士は後にこう書き残しています。『私は逃げたのではない。正しいものを選んだのだ』と。」
田中さんは先生の話を聞きながら、自分の気持ちを整理しようとした。
「つまり、先生は……あきらめることと、やめることは違うということですか。」
「そうです。やめるというのは、状況をよく見て、自分で決めることです。あきらめるというのは、できないと思って逃げることです。あの武士は、戦うことをやめましたが、自分の信念はやめませんでした。」
田中さんの目が少し輝いた。先生の言葉が、ずっとうまく言えなかった自分の気持ちを代わりに言ってくれたような気がした。
「私の研究も……方法をやめることはできても、知りたいという気持ちはやめなくていいんですね。」
先生はうなずいた。「歴史を見ると、大切なものを守るために、一度立ち止まった人が多いです。それは弱さではなく、むしろ強さです。田中さんも、今が見切りをつける時かもしれません。でも、それは終わりではなく、別の始まりかもしれませんよ。」
田中さんは研究室を出るとき、来たときより少し軽い気持ちになっていた。まだ答えは出ていない。しかし、「やめる」と「あきらめる」の違いが、少しわかったような気がした。