日本人の多くは、自らを「無宗教」と称しながらも、盆には先祖の霊を迎え、初詣に足を運び、自然の中に何らかの霊的な気配を感じ取るという、一見矛盾した営みを当然のものとして受け入れている。この逆説的な態度は、単なる慣習への惰性によるものではなく、むしろ体系化された教義への帰属を拒みつつも、生の有限性に向き合う際の実存的な問いを手放せないでいる人間の姿を映し出しているのではなかろうか。
一方、近代科学の進展は、かつて宗教が担っていた「死とは何か」「なぜ生きるのか」という問いに対し、神経科学や進化生物学の知見を援用した実証的な説明を提示するようになった。意識は脳神経の活動に還元されうるとする立場からすれば、死後の世界や霊的な連続性といった概念は、せいぜい心理的安定装置としての機能に留まるに過ぎないということになる。しかしながら、こうした還元主義的な説明が、人間の内的経験の全容を捉えきれているかどうかについては、哲学的な留保が伴わざるを得ない。
精神科医のヴィクトール・フランクルは、極限状況においてなお生の意味を希求する人間の姿を記述し、意味への意志こそが実存の核心をなすと論じた。この視座に立てば、信仰とは必ずしも超自然的命題への知的同意ではなく、意味の地平を切り拓く実践的な営みとして再解釈されうる。科学が「いかに」を問うとすれば、宗教的感性は「なぜ」を問い続けるという機能的な分業が成立するとも考えられる。
翻って現代日本の文脈に照らすならば、物質的充足と引き換えに精神的空洞感を抱える人々が増えているという指摘は、生の意味をめぐる問いが依然として解消されていないことを示唆している。信仰と科学は対立する世界観として描かれがちであるものの、いずれも人間が有限性と折り合いをつけながら生を営むための様式として、相補的に機能しうると言えるだろう。