「ねえ、お父さん。来年から留学支援の奨学金が大幅に拡充されるって聞いたんだけど、私も応募してみようかな。」
娘の言葉に、父親の手が一瞬止まった。夕食後、食卓に広げた家計簿から目を上げることなく、彼はゆっくりと口を開いた。
「そうか。……まあ、確かに今は国を挙げて若者を海外に送り出そうとしているのはわかる。でもな、奨学金が出るとはいえ、渡航費や現地の生活費、それに保険料なんかを全部足したら、うちの家計で賄える範囲を軽く超えてしまうぞ。」
娘は少し俯きながらも、食い下がった。
「だって、このままじゃ将来的に職を選ぶ幅が狭まるって言われてるじゃない。英語だけじゃなく、現地での実地体験がないと、どんなに専門知識を積み上げても国際的な舞台では通用しないって先生も言ってたし。」
父親はしばらく沈黙した後、ため息とも苦笑ともつかない息を漏らした。
「言いたいことはわかる。ただ、お前の言う『通用しない』というのは、今後の話だろう。今現在、海外経験のある人材が優遇されているのは確かだが、それが十年後も同じ形で続くかどうかは、誰にも断言できまい。テクノロジーの進化で、物理的に現地へ赴かずとも相当程度の国際業務が可能になるというシナリオだって十分考えられる。」
「でも、それって逆に言えば、今のうちに行っておかないと手遅れになるかもしれないってことじゃないの?」
父親は家計簿を閉じ、娘の顔をまっすぐ見た。
「お前の焦りはわからないでもない。ところが、焦りに任せて多額の費用を投じた挙げ句、方向性が定まらないまま帰国するケースも少なくないんだ。俺が危惧しているのは留学そのものじゃなく、目的意識が曖昧なまま出ていくことだ。」
娘は黙り込んだ。父親は続けた。
「学ぶべき内容を絞り込んで、帰国後のキャリアの見通しをある程度立てた上で臨むなら、家族で改めて話し合う余地はある。だが、周囲に流されて『みんなが行くから』という理由では、こちらも首を縦に振るわけにはいかない。」
娘はうつむいたまま小さく「…わかった」と呟いた。その声には、反論を封じられた悔しさと、父親の言葉の芯を認めざるを得ない複雑な感情が入り混じっていた。食卓にはしばらく沈黙が漂い、父親は再び家計簿を開いた。その仕草は、この話がまだ終わっていないことを、言葉以上に雄弁に物語っていた。