私が記者として働き始めた頃、職場には「婦人記者」という呼び方があった。当時の私はその言葉に違和感を覚えながらも、周りに合わせて黙って受け入れていた。今思えば、あの言葉には「記者は本来男性のものだ」という前提が隠れていたわけだ。
数十年が経ち、「看護婦」が「看護師」に変わり、「スチュワーデス」が「客室乗務員」に変わった。言葉が変わると、確かに社会の見方も少しずつ変化していくように感じる。若い世代の人たちは、そうした中立的な呼び方を当たり前のこととして育ってきた。彼らにとって、職業に性別を付け加える表現は古くさく映るに違いない。
しかし一方で、「女性管理職」「女医」といった表現は今もよく使われている。これらの言葉は、まだ女性がその立場にいることを特別視している証拠だと私は思う。言葉を変えることは意識を変える第一歩であるが、言葉だけが変わっても社会の実態が変わらなければ、それは表面的な変化にすぎない。言語と社会は、互いに影響し合いながら変わっていくものだと、私はこの年齢になってようやく実感している。
先日、二十代の編集者と話していて、興味深いことに気がついた。彼女は「女性リーダー」という表現を使うことに対して、強い抵抗感を持っていた。「なぜリーダーに性別を付ける必要があるのですか」と、彼女は率直に言った。私の世代では、女性がリーダーになること自体が珍しかったため、あえてそう呼ぶことに意味があると感じていた。世代によって、同じ言葉の受け止め方がこれほど違うとは、正直驚きだった。
考えてみれば、言葉に対する感覚は、その人が生きてきた時代の常識を反映しているわけだ。私たちの世代が「特別なこと」として強調した表現が、次の世代には「差別的なこと」として映る。どちらが正しいかという問題ではなく、時代が変わるにつれて、言葉の持つ意味も変わっていくということだろう。
大切なのは、異なる世代が互いの感覚を理解しようとする姿勢ではないかと思う。言葉をめぐる対話を重ねることで、社会全体がより良い方向へ進んでいけるのではないだろうか。それが、言語と社会の変化を長く見てきた私の、正直な感想である。