田中先生は、大学の研究室の窓から外を見ながら、静かにコーヒーを飲んでいた。そこへ、教え子の山本が入ってきた。
「先生、最近少し顔色がよくなりましたね」と山本が言った。
田中先生は少し笑って、「そうかね。実は最近、毎朝走るようにしているんだ」と答えた。
山本は少し驚いた様子で「先生が走るんですか?いつから始めたんですか?」と聞いた。
「三か月ほど前からかな。最初は五分も走れなかったよ」と先生は言った。その声はどこかなつかしそうだった。
山本は、先生が以前いつも疲れた顔をしていたことを思い出した。研究の締め切りが続いていた時期、先生は毎日遅くまで研究室に残っていた。あの頃の先生は、話しかけにくい雰囲気があった。
「走り始めたきっかけは何だったんですか?」と山本は聞いた。
先生はコーヒーカップを置いて、「去年の秋、ある本を読んでね。昔の人も、体を動かすことで心を整えていたという話が書いてあったんだ」と言った。「古代ギリシャの人たちは、体と心は一つのものだと考えていたらしい。それを読んで、なるほどと思ってね」
山本は「それで走り始めたんですね」と言った。
「うん。最初は半信半疑だったよ」と先生は言った。「でも、走った後は頭がすっきりする気がして。それが続くうちに、だんだん気分が上がってくるようになったんだ」
山本は、先生の言葉を聞きながら、自分のことを考えていた。最近、就職活動がうまくいかなくて、毎日気持ちが重かった。朝、起きるのがつらくなっていた。でも、それを先生には言えなかった。
「先生、体を動かすと、本当に気分が変わるものなんですか?」と山本は、何気ない様子で聞いた。
先生はしばらく山本の顔を見てから、「変わるよ。でも、それだけじゃない」と言った。「自分で決めて、自分で続ける。それが大事なんだと思う。毎朝走ることにしたのは私自身だからね。それが、自分を信じることにつながっていく気がする」
山本は何も言わなかった。でも、先生の言葉は山本の心の中に静かに残った。
先生は窓の外を見ながら、「昔の人は、体と心のつながりを体験から学んでいた。私たちも、頭で考えるだけでなく、体で感じることが必要なのかもしれないね」と、ひとりごとのように言った。
山本は「ありがとうございます」と言って、研究室を出た。その日の帰り道、山本はいつもより少し速く歩いた。