私が若き日に見た町工場の風景は、今も瞼の裏に焼き付いて離れない。旋盤の唸り声、油の匂い、親方の厳めしい横顔——それらは単なる記憶の断片ではなく、一つの時代の魂そのものであった。あの頃の職人たちは、技を継ぐことを人生の自明の理として受け止め、問うまでもなく次の世代へと手渡すことを信じて疑わなかった。ところが今、孫の世代に目を向けると、彼らの眼差しはまるで別の星を見ているかのように遠い。高度な技術を持つ中小の製造業者が後継者を見つけられぬまま廃業へと追い込まれていくさまを、彼らは「仕方のないこと」として淡々と受け流すのである。世代が変わるにつれて、「守る」という行為の重みそのものが、砂が指の間からこぼれ落ちるように希薄になっていったのではあるまいか。技術の伝承とは本来、血脈のごとく連綿と流れるべきものであったはずなのに、その流れはいつの間にか干上がりつつある。これを単なる人手不足の問題と片付けるのは、あまりにも表層的な診断と言わざるを得ない。
かつての中小企業経営者は、大企業の傘の下に身を寄せながらも、その内に秘めた矜持を決して手放さなかった。系列の末端に連なるとはいえ、自らの工夫と執念によって唯一無二の領域を切り開いてきたのである。しかし翻って今の若い経営者たちを見れば、彼らは先人が築いた狭い専門領域をむしろ窮屈な檻と見なし、デジタルの翼を借りて広大な市場へと飛び出そうとする。この姿勢を、旧世代の目には無謀な冒険と映るかもしれないが、果たしてそれだけであろうか。時代の波に乗ることを余儀なくされる現実を前に、彼らが選び取った道は、ある種の合理的な生存本能の発露と見ることもできよう。されど私が憂うのは、その変化の速さゆえに、長年の試行錯誤の末に結晶した暗黙知が、継承されぬまま霧散してしまうことである。新旧の知恵が相克するのみならず、互いを照らし合う契機を持ち得ぬまま擦れ違っていく——そこにこそ、現代の中小企業が抱える最も深い断絶の本質があると、私には思われてならない。