「先生、少し伺ってもよろしいですか。」
山田教授は書類から目を上げた。ゼミ生の林が、少し迷いながら部屋に入ってきた。
「北欧の国では、老いた親の世話は国が引き受けるのが当然だと聞きました。日本とはずいぶん違うと思って。」
教授はペンを置き、静かに答えた。「そうだね。たとえばスウェーデンでは、親の介護を子どもに任せるという発想自体、あまり一般的ではない。公的なサービスが整っているから、子が親を自宅で看るより、専門の施設に任せる方が自然とされている。」
「じゃあ、日本の『子どもが親の面倒を見るべきだ』という考えは、遅れているということでしょうか。」
教授は少し間を置いてから言った。「それは違う。どちらが正しいかという話ではないよ。社会の仕組みや、歴史的に積み重ねてきた価値観が違うわけだから。ただ、日本では今、家族だけに負担を押しつける状況が続いているのは確かだ。特に働きながら親を介護する人たちにとって、それは深刻な問題になっている。」
林はうつむいたまま、しばらく何も言わなかった。
教授室を出た林は、廊下でしばらく立ち止まった。実は彼女の母親が、去年から認知症の祖母を一人で世話していた。母は毎晩疲れた顔で帰ってきて、愚痴一つこぼさなかった。それを見て育った林は、「家族が支え合うのは当然だ」と思ってきた。しかし同時に、母がひどく消耗しているのも知っていた。
翌週のゼミで、教授は改めてこの話題を取り上げた。「北欧と日本を単純に比べると、制度の差ばかりが目に入る。でも本当に大切なのは、その背後にある問いだ。老いた人を支える責任は、家族にあるのか、社会全体にあるのか。それとも両方にあるのか。」
「先生はどちらだと思いますか。」別の学生が聞いた。
教授は少し笑って言った。「私は、どちらかに決めるべきではないと思っている。家族の絆を大切にしながら、社会がそれをきちんと支える仕組みが必要だ。一方だけに押しつけると、必ずどこかが壊れる。」
林はノートに何かを書き留めた。その文字は、母への手紙の書き出しのように見えた。