医療というものを、私はかつてコストセンターとしか見ていなかった。起業して間もない頃、従業員の健康保険料が重くのしかかるたびに、これほど非効率な仕組みがあるものかと苛立ちを覚えたものだ。ところが五十代に差し掛かり、自身が患者として公立病院の長い待合室に座らざるを得なくなった時、私の認識は根底から覆された。
番号札を手に三時間待ち続ける間、私の隣には様々な人々がいた。高齢の農家の男性、乳幼児を抱えた若い母親、言葉の不自由な外国人労働者。彼らにとって、この場所は選択肢の一つではなく、唯一の砦なのだと気づいた瞬間、私の中で何かが静かに崩れた。効率やROIといった物差しでは、到底測れない価値がそこにあった。
一方で、民間クリニックに足を運んだ際の体験もまた、私に複雑な感慨をもたらした。待ち時間はほぼ皆無、設備は洗練され、医師の説明も懇切丁寧だ。しかしその恩恵を享受できるのは、相応の経済力を持つ者に限られるという厳然たる事実から目を背けるわけにはいかない。質の高いサービスが購買力によって分配されるのであれば、それはもはや医療ではなく、高級消費財に過ぎないのではないか。
私が今確信しているのは、公的医療と民間医療は競合関係ではなく、補完関係にあるべきだということだ。公立の基盤が揺らげば、最も脆弱な層が最初に切り捨てられる。かといって民間の活力を排除すれば、医療全体の質は停滞を余儀なくされる。どちらか一方を選ぶという二項対立的な発想こそ、この問題を長らく迷走させてきた元凶ではないだろうか。
事業を営む者として、私はリターンを重視する。しかし人が等しく病み、等しく回復を望むという現実の前では、収益性という尺度は本質を見失わせる罠にもなり得る。効率を追い求めるあまり、誰かの命の重さを勘定の外に置いてはならない——そのことを、あの長い待合室が私に静かに教えてくれた。