田中先生は五十代のベテラン看護師で、長年、地域の診療所で働いてきた。ある午後、休憩室で後輩の山本さんと話していた。
「最近、オンラインで栄養の勉強を始めたんです」と山本さんが言った。「患者さんに食事のアドバイスができるようになりたくて。」
田中先生はコーヒーカップを持ったまま、少し間を置いた。「そう。いいことね。」
その言葉は短かったが、山本さんには何か引っかかるものがあった。先生の表情は穏やかだったが、目はどこか遠くを見ているようだった。
「先生は、若いころ何か新しいことを始めたことがありますか?」と山本さんは聞いた。
田中先生はゆっくりと窓の外を見た。「三十年前、私が新人のころはね、患者さんに必要な情報を伝える方法が今とは全然違ったのよ。紙に手書きで説明を書いて、渡すだけだった。」
「それで十分だったんですか?」
「十分だとは言えなかったわ。でも、それしか方法がなかったから。」先生は少し笑った。「ある日、先輩の看護師さんに言われたの。『あなたは患者さんの顔を見ながら話しているか』って。」
山本さんは黙って聞いていた。
「私はそのとき、説明の内容ばかり気にしていて、患者さんの気持ちをちゃんと見ていなかったのよ。それからは、コミュニケーションの勉強をするようにしたわ。本を読んだり、研修に参加したり。」
「それが今の先生につながっているんですね。」
「そうかもしれない。でも、大事なのは、何を学ぶかより、なぜ学ぶかだと思うわ。」田中先生はそう言って、山本さんをまっすぐ見た。「あなたが栄養を勉強したいのは、患者さんのためでしょう?それなら、きっと続けられる。」
山本さんはうなずいた。しかし、田中先生の言葉の奥に、もっと深い何かがあるような気がして、すぐには答えられなかった。
先生はそれ以上何も言わなかった。ただ、静かにコーヒーを飲み続けた。その沈黙は重くはなかったが、山本さんの心には長く残った。