あの日のことを、今でもはっきりと覚えている。
2020年の春、私は東京の小さな会社で働いていた。毎朝、満員電車に乗って一時間かけてオフィスへ通っていた。それが当たり前だと思っていた。しかし、ある日突然、会社から「しばらく家で仕事をしてほしい」と言われた。最初は戸惑った。家で仕事なんてできるのだろうか、と不安だった。
最初の一週間は本当に大変だった。食卓のテーブルを机代わりにして、パソコンを広げた。家族の声が気になって、なかなか集中できなかった。「早くオフィスに戻りたい」と毎日思っていた。
しかし、一か月が過ぎると、少しずつ慣れてきた。通勤に使っていた時間が自由になった。朝ゆっくり起きて、好きな音楽を聴きながら仕事ができるようになった。体も楽になり、気持ちにも余裕が生まれた。「これはこれで悪くないかもしれない」と感じ始めた。
その頃、友人から連絡が来た。彼女は東京を離れて、地方の小さな町に引っ越したというのだ。「家賃が安いし、自然が多くて気持ちいい。仕事はパソコン一台あればどこでもできるから」と言っていた。その言葉を聞いて、私も考えさせられた。
確かに、あの頃から都市の風景は少しずつ変わっていったらしい。駅の近くにあった大きなオフィスビルが、住まいや商業施設に変換されるようになった。毎日多くの人でにぎわっていたカフェや定食屋が閉まり始めた。一方で、住宅地の近くに小さなコワーキングスペースが増えていった。都市の中心部だけでなく、郊外や地方にも人が集まるようになったのだ。
私自身は東京に残ることにした。しかし、働き方は大きく変わった。今は週に二日だけオフィスへ行き、残りは家や近所のカフェで仕事をしている。以前は「仕事とはオフィスでするもの」だと信じていた。でも今は、場所よりも仕事の中身が大切だと思っている。
あの春の体験を振り返ると、人は環境が変わっても、意外と柔軟に適応できるものだと感じる。そして、「当たり前」だと思っていたことが、実はそうでもなかったと気づく。
働き方が変わることで、都市の経済も変わった。それは良いことばかりではなかったかもしれない。しかし、この変化は私たちに大切なことを教えてくれた。自分にとって本当に必要なものは何か、どんな暮らしがしたいのかを、もう一度考えるきっかけになったのだ。あの小さな春の出来事が、こんなにも大きな問いを私に残すとは、当時は思ってもみなかった。