老いることへの恐怖が、いつの間にか時代全体を覆い尽くしているように感じるのは、私だけではあるまい。先日、九十を超えた伯父が病院のベッドで幾本もの管につながれているのを目にしたとき、私は言いようのない戸惑いを覚えた。意識が朦朧としたまま、ただ心臓が動き続けているという事実だけが、そこにあった。医師は「現代医療の粋を尽くしております」と誇らしげに語ったものの、伯父がかつて「畳の上で死にたい」と呟いていたことを思えば、その言葉は私の胸に空虚な響きをもたらすばかりであった。
寿命の延長は、一般に祝福として語られる。百歳を超えて矍鑠と暮らす高齢者の姿が報道されるたびに、社会は医療技術の勝利を称賛してやまない。だが、そうした歓喜の陰で、誰もが口をつぐんでいる問いがある。その長い生を維持するために、社会はどれほどの資源を注ぎ込み、その重荷を誰が担うのかという問いである。膨張し続ける医療費は、若い世代の可能性を静かに、しかし確実に削り取っている。世代と世代の間に横たわる不均衡は、数値として可視化されるよりも先に、人々の間の信頼と連帯をじわじわと蝕んでいくものなのかもしれない。
延命の是非を問うことは、ともすれば命の価値に序列をつける行為と同一視され、倫理的な禁忌として退けられがちである。しかし私には、その忌避こそが問題の核心を見えにくくしているように思われてならない。真に問われるべきは、どれだけ長く生きるかではなく、いかなる質をもって生きるか、そして一人の人間の生の終わりをいかに尊厳あるものとして共同体が受け止めるか、という点ではないだろうか。生を引き延ばすことが必ずしも生を豊かにするわけではない、という逆説は、医療の現場に立ち会うたびに、私の内側で一層の重みを帯びる。
伯父はその後、管を外すことを自ら望み、数日のうちに静かに逝った。その最期は、決して悲劇ではなかった。むしろ、自らの意志で死の形を選び取ったという事実が、その生涯に最後の輝きを与えたようにすら見えた。有限であるがゆえに、生は意味を持つ。老いと死を社会全体で引き受けるための思想と制度を、私たちはいまだ持ち合わせているとは言い難い。だからこそ、この問いを個人の内面に封じ込めることなく、公共の言葉として語り続けることが、今を生きる者の責務ではないかと、私は静かに、しかし切実に思うのである。