近代という時代は、人類が「進歩」という名の下に過去を断ち切ることで自己を定義してきた時代であった。啓蒙主義以降、歴史は一直線に向上するものとされ、伝統や慣習はしばしば克服すべき障壁として位置づけられてきた。しかしポストモダンの思潮が席巻した二十世紀後半以降、こうした一元的な進歩史観は根底から問い直されることになった。大きな物語が解体され、普遍的な理性への信頼が揺らぐ中で、かつて「時代遅れ」の烙印を押された伝統的価値観が、新たな光のもとに再浮上しつつあるのは決して偶然ではあるまい。
私が幼少期を過ごした地方の小さな町には、季節の節目ごとに繰り返される祭礼があった。その所作のひとつひとつが、言語化されることなく身体に刻まれ、共同体の紐帯を静かに維持していた。当時の私にはそれが何を意味するかを論理的に説明する術もなかったが、今にして思えば、あの反復の営みこそが、共同体の記憶を世代間で継承するための、きわめて精緻な装置であったと言わざるを得ない。
近代的合理主義の枠組みにおいては、こうした慣習は効率や生産性という尺度では測りがたいものとして周縁化されてきた。だが、まさにその「測りがたさ」の中にこそ、伝統の本質的な価値が宿っているのではないだろうか。哲学者マイケル・オークショットが「合理主義の政治」において指摘したように、人間の実践的知識は命題として明示化できない「暗黙知」の層を不可避的に含んでおり、伝統とはその暗黙知が時間の堆積を経て結晶化したものにほかならない。
もっとも、伝統を無批判に称揚することは、別種の知的怠惰に陥りかねない。伝統の中には、抑圧や排除の論理を内包したものも少なくなく、それらを単なる「文化的遺産」として保護することは、歴史的不正義を固定化することにもなりうる。真の意味での再評価とは、伝統を博物館的な保存の対象として扱うのではなく、批判的省察を経て現代の文脈に接続させる営みであるはずだ。
翻って未来を展望するならば、グローバル化と情報化が加速する社会において、均質化への抵抗として伝統的価値観が果たす役割はますます重要性を帯びることになろう。アイデンティティの基盤が流動化する中で、個人が自らを根拠づける「場所の記憶」や「共同体の物語」への渇望は、むしろ切実さを増しているように見受けられる。しかしそれは、過去への郷愁的回帰であってはならない。伝統を現在の批判的資源として活用しつつ、それを未来へと開かれた形で再構築していくことが、ポストモダン以降の私たちに課せられた知的課題であると、私は確信している。