デジタル医療の個別化が声高に叫ばれるようになって久しいが、正直なところ、私はずっと懐疑的だった。三十代の会社員として多忙な日々を送るなか、上司に勧められるがままスマートウォッチを装着し始めたのは二年前のことだ。心拍数・睡眠の質・歩数といったデータが刻々と蓄積されていくのを眺めながら、当初は「これが何の役に立つのか」と冷ややかに構えていた。ところが、ある朝、端末が「安静時心拍数が過去一週間で急上昇している」と警告を発した。半信半疑で受診したところ、医師から過労による自律神経の乱れを指摘され、早期の生活習慣改善を余儀なくされた。その経験を経て初めて、データの蓄積が単なる数値の羅列にとどまらず、自分でも気づかぬ身体の変調を可視化しうるものだと実感せざるを得なかった。無論、端末が示す数値がすべて正確とは言い難いし、誤検知による不必要な受診が医療資源を圧迫するという懸念も否定できない。それでも、あの警告がなければ私は限界まで働き続けていたに違いない。デジタルの介在が、医師と患者という従来の二項関係に新たな軸をもたらしつつあることを、身をもって知った出来事だった。
同僚の田中は、私がスマートウォッチに感化されたと知ると、苦笑いを浮かべながら真っ向から異を唱えた。「データに頼るほど、自分の身体感覚が鈍くなるんじゃないか」というのが彼の持論であり、それはある意味で的を射た指摘だとも思った。彼は以前、健康管理アプリが示した「睡眠スコア低下」の警告に過剰反応し、心療内科を受診したにもかかわらず、医師から「異常なし、むしろアプリへの依存が不安を増幅させている」と諭された経験があるという。その話を聞いたとき、デジタルヘルスの普及が必ずしも恩恵一辺倒ではないという現実を、改めて突きつけられた気がした。加えて彼は、こうしたサービスの利用料や端末コストを鑑みれば、経済的余裕のある層だけが恩恵を享受し、格差が固定化されるという構造的問題を冷静に指摘した。医療の個別化が、平等であるべき健康へのアクセスを逆に歪めかねないという論点は、私が端末の利便性に浮かれるあまり見落としていた盲点だった。便利さの陰に潜む不均衡を直視することなしに、デジタル医療の未来を手放しで礼賛することはできないと、今は率直に認めざるを得ない。